本当にあった話

過去にあった、信じられないけど本当のお話

桐島小夏

母子家庭だったので高卒で就職するも、上司のパワハラや同僚のいじめにあって2度の休職を経験。住宅ローンが足かせとなり辞めることができずにいたところ、メンターと奇跡の出会いに恵まれました。家族を守り自分らしく生きるために、メンターからビジネスの本質やマインドセットを学んでいます。

あなたは「ハンセン病」、そして「無らい県運動」というものをご存知でしょうか?

 

これからお話しするのは、過去にあった実際の出来事です。

結果論ではありますが、政府と権威ある医師の判断によって、非常に深刻な人権侵害を生み出してしまったというお話です。

 

時代が大きく変わりつつある今、ありえないことがどんどん起こっています。

これからの時代を生き抜くにあたって、このお話がなにがしら参考になればいいなと思っています。

よろしかったら最後まで読んでいただければ幸いです。

ハンセン病とは?

ハンセン病は、「らい菌」という細菌によって引き起こされる慢性の感染症です。

この病気は、主に皮膚や末梢神経に影響を与えます。

進行すると、皮膚に潰瘍ができたり、神経が損傷されて手足の形が変わってしまうことがあります。

この病気は古代から知られており、長い間、世界中で差別や偏見の対象となってきました。

日本でも、ハンセン病患者は長い間社会から隔離され、強制的に療養所へ送られる運命にありました。

実際は、ハンセン病は一般的な日常生活で感染することはまずありません。たとえば、握手や食器の共有など、通常の接触では感染しないほど感染力は弱いのです。

世界のハンセン病対策の違い

ヨーロッパやアメリカの対応

20世紀はじめから中盤にかけて、ハンセン病への対応は国や地域によって異なっています。

ヨーロッパの一部やアメリカでは、患者を隔離する政策が取られていましたが、同時に治療や患者の人権保護も重要視されていました。

また、1940年代にハンセン病の治療に効果的であることが判明した「スルホン薬」の導入以降、隔離政策は徐々に緩和され、治療中心のアプローチに移行しました。

つまり、患者の隔離だけでなく、治療や生活の質を向上させる努力も行われていたのです。

日本では厳しい隔離政策が続いた

いっぽう、日本では隔離政策が特に厳しく実施され、患者は長い間、社会から完全に隔離されました。

この違いの背景には、日本社会に根強く残る偏見や、政府が推進した強制的な政策があります。

日本では、患者が病気を治療する機会を得ることよりも、社会から遠ざけることが優先されていたのです。

日本は、なぜ隔離政策を続けたのか

権威ある医師の影響

日本での厳しい隔離政策の背景には、当時の権威ある医師の提言が大きな影響を与えていました。

その中でも、ハンセン病の研究において先駆的な役割を果たしたある医師は、らい菌の感染力を過大に評価し、患者の隔離が社会を守る唯一の方法であると主張しました。

この主張は、1907年に「癩(らい)予防ニ関スル意見書」として政府に提出され、政府はこれをそのまま採用しました。

政府の隔離政策の制定

その結果、1907年に「癩予防ニ関スル件」が制定され、さらに1931年には「癩予防法」によって全国的な強制隔離政策が確立されました。

政府が権威ある医師の提言を無批判に受け入れたことが、後に多くの人権侵害を引き起こす原因となったのです。

これがのちにお話しする「無らい県運動」という信じられない出来事につながっていきます。

スルホン薬の登場とその影響

ハンセン病の治療法の発見

1940年代にスルホン薬が登場し、ハンセン病が治療可能な病気であることが明らかになりました。

スルホン薬はハンセン病の進行を抑え、患者を治療する効果があることが証明されました。

日本における隔離政策の継続

スルホン薬は、日本では1948年から本格的に導入されました。

これにより、国立療養所や専門医たちが、この新しい治療法を積極的に採用し、全国のハンセン病患者に対して使用が広まりました。

しかし、スルホン薬が普及した後も、日本ではハンセン病患者に対する隔離政策が続けられました。

その理由として、社会的な偏見が依然として強く残っていたこと、既存の隔離政策が制度的に深く根付いていたこと、そして患者の感染力に対する過剰な恐れがあげられます。

このため、治療が進む一方で、患者の隔離は続き、多くの患者が社会復帰の機会を失ってしまいました。

信じられない出来事「無らい県運動」

無らい県運動の始まり

無らい県運動は「病気を根絶する」という名目のもと、1930年代から1940年代にかけて行われた、日本におけるハンセン病対策の一環です。

この運動では、各県がハンセン病患者を「完全に排除」し、「無らい県」として宣言されることを目指しました。

これにより、各地で患者の強制隔離がさらに徹底され、患者を社会から隔離するために地域住民や保健所が密告を奨励するようになりました。

密告の奨励とその影響

密告は、ハンセン病に対する恐怖心や偏見から行われたもので、ときには報奨金が与えられることもありました。

このような密告により、実際にはハンセン病ではない人々までが隔離されるという悲劇が生まれました。

また、患者が発見されると強制的に療養所へ送られるため、地域社会から追放されることや、家族が分断されることもありました。

患者や家族への影響

この運動によって、多くの患者が社会的に孤立し、深刻な人権侵害が行われました。

無らい県運動は、ハンセン病患者に対する過剰な恐れと偏見、そして「無らい県」として認定されることへの競争心が引き起こした運動であり、患者やその家族は長い間、多くの苦しみを強いられました。

ハンセン病の歴史から学ぶこと

政府の謝罪と隔離政策の撤廃

1996年に、ようやくハンセン病患者に対する隔離政策が撤廃され、政府からの公式な謝罪が行われました。

スルホン薬の導入から数えても約50年という長い年月がかかりました。

その背景には、

・古くから「不治の病」や「遺伝病」と見なされていたこと

・治療法が開発されても、完全に感染力が無くなるまでには時間がかかると考えられており、患者を社会から隔離することが「安全」だと信じられていたこと

・法整備により強化された隔離政策が、行政や医療機関に深く根付いており、制度の変更には大きな抵抗があったこと

・施設の運営や医療体制が既に確立されていたこと

・ハンセン病患者の社会復帰を支援する体制が整備されていなかったこと

があげられます。

とはいえこの間、多くの人々がその影響を受け続けました。

未来への教訓

ハンセン病の歴史は、病気に対する社会の対応がいかに人権に影響を与えるかを示す重要な事例だと思います。

通信や医療技術も未発達の状況で、当時は政府も権威のある医師の意見を取り入れざるをえなかったのかもしれません。

ただ、厳しい隔離政策から「無らい県運動」という信じられない出来事が起きてしまったこと、過剰な恐れと偏見によって人は恐ろしい行動をとってしまうことを覚えていてほしいと思っています。

 

最後までお読みくださりありがとうございました。

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